通史

月島の誕生と佃大橋——地続きになるまで

明治の埋め立てで生まれた月島、そして1964年の橋が佃川を消した。

佃島と月島を隔てていた「佃川」

明治22年(1889年)から25年(1892年)にかけて、東京府は佃島の南に広がる浅瀬を埋め立て、「月島第一号埋立地」(現在の月島1〜4丁目)を造成した。造成当初、旧来の佃島と新しくできた月島の間には「佃川」と呼ばれる水路が流れており、両者は水路一本を挟んだ別々の島だった。

両島が陸続きになったのは、戦後の1964年(昭和39年)、東京オリンピックに向けて隅田川に「佃大橋」が架けられたときである。橋の月島側アプローチ道路の用地を確保するため、佃川の大部分が埋め立てられた。橋は同年1月に完成し、8月27日に開通した。

佃大橋は、晴海通りや永代通りの渋滞を緩和し、月島・晴海の工業地区へ産業幹線を通す「補助153号線」整備事業の一環として架けられた。構造は3径間連続の鋼床版箱桁橋で、基礎には深さ約20mのニューマチックケーソン工法が用いられている。オリンピックという国家的な行事に合わせた突貫工事でありながら、当時としては大がかりな土木技術が投入された橋だった。

300年余り続いた「佃の渡し」

佃大橋の開通で役目を終えたのが「佃の渡し」である。中央区公式サイトによれば、渡しの起源は佃島が築造された直後の正保2年(1645年)にさかのぼり、当初は島民が漕ぐ手こぎの渡船だった。明治16年(1883年)に大倉組の経営となって定期運航が始まり、大正15年(1926年)3月には東京市営の渡船に移管、翌昭和2年(1927年)3月からは汽船による曳船渡船が無料で運航されるようになった。

隅田川に残っていた渡し船の中でも最後まで運航を続けたのがこの佃の渡しで、300年以上にわたって佃島と対岸の築地明石町を結んだ。佃大橋の完成にともない、昭和39年(1964年)8月27日を最後の営業日として閉納式が行われ、その歴史に幕を下ろした。橋のたもとには「佃島渡船場跡」として、この渡しの記憶が残されている。

埋め立てを免れた「佃堀」

佃川がすべて埋め立てられたわけではない。西側の一部は「佃川支川」として残され、1965年に隅田川との合流部へ「住吉水門」が設けられて高潮対策が施された。この水路は今も「佃堀」と呼ばれ、赤い佃小橋が架かる。舟だまりだった頃の雰囲気を残す一角として、元佃の路地歩きの目印になっている。

碁盤目の月島、不規則な元佃

月島第一号埋立地は、江戸期の埋め立てとは違う近代の都市計画にもとづいて造成された。街路は碁盤目状に区画され、通りには「西仲通り」のように整然とした名前がつけられている。同じ埋め立て地でありながら、元佃の不規則な路地とは対照的な、計画都市としての性格を持っている。

この違いは、佃島と月島が「隣り合っているが同じではない」ことを示す、もう一つの手がかりになる。佃島は漁民の自力開拓、月島は明治政府による近代都市計画——2つの島は、成り立ちの時代も方法も異なる。

月島の名物ともんじゃ焼き

月島といえば、もんじゃ焼きの町として知られている。この名物は、佃煮のように江戸時代から続く食ではなく、月島の西仲通り商店街周辺で戦後に発展した駄菓子屋文化に由来するとされる。佃島の名物である佃煮・白魚とは、成立の時代も由来もまったく異なる。

同じ「隣の島の名物」でありながら、佃煮は江戸期の漁村から、もんじゃ焼きは戦後の駄菓子屋文化から生まれた——この違いも、佃島と月島が別々の歴史を歩んできたことの一つの表れである。

出典
  • 中央区公式サイト「佃大橋と佃の渡し」(city.chuo.lg.jp)
  • 中央区公式サイト「佃小橋」

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