通史
佃大橋と佃の渡し:月島と地続きになるまで
1964年に架けられた1本の橋が、長く続いた渡し船の歴史を終わらせました。
佃島と月島を隔てていた「佃川」
明治期に、佃島の南に広がる浅瀬が埋め立てられ、「月島第一号埋立地」(現在の月島1〜4丁目)が造成されました。造成当初、旧来の佃島と新しくできた月島の間には「佃川」と呼ばれる水路が流れており、両者は水路一本を挟んだ別々の島でした。
両島が陸続きになったのは、戦後の1964年(昭和39年)、東京オリンピックに向けた都心部の交通緩和策の一つとして隅田川に「佃大橋」が架けられたときです。橋の建設にともなって佃川の大部分が埋め立てられ、2つの島は地続きになったと紹介されています。橋の構造や工法の細部は、確かめられた資料が見つからなかったため、ここでは書きません。
長く続いた「佃の渡し」
佃大橋の開通で役目を終えたのが「佃の渡し」です。中央区公式サイトによれば、渡しの起源は佃島が築造された直後の正保2年(1645年)にさかのぼり、当初は島民が運営し、不定期に往復していました。明治16年(1883年)に大倉組の経営となって定期運航が始まり、大正15年(1926年)3月には東京市営の渡船に移管、翌昭和2年(1927年)3月からは汽船による曳船渡船が無料で運航されるようになりました。
隅田川に残る最後の渡船として昭和39年(1964年)まで存続し、佃島と対岸の船松町(現在の明石町あたり)を結びました。佃大橋の完成にともない、昭和39年(1964年)にその歴史に幕を下ろしました。橋のたもとには「佃島渡船場跡」として、この渡しの記憶が残されています。
埋め立てを免れた「佃堀」
佃川がすべて埋め立てられたわけではありません。西側の一部は「佃川支川」として残され、1965年に隅田川との合流部へ「住吉水門」が設けられて高潮対策が施されました。この水路は今も「佃堀」と呼ばれ、赤い佃小橋が架かっています。舟だまりだった頃の雰囲気を残す一角として、元佃の路地歩きの目印になっています。橋・渡し・堀という3つの姿は、同じ「佃川」という1本の水路がたどった、別々の結末です。
- 中央区公式サイト「佃島渡船場跡」(渡しの起源と運営の変遷・廃止の時期を確認)
- 観光案内サイトの紹介文(佃川の埋め立ては一次資料では未確認)