産業・生業

石川島造船所からリバーシティ21へ

重工業の跡地9割超が、24年かけて超高層住宅街に変わった。

無宿人の更生施設だった石川島

造船所ができる前、石川島には別の役割があった。火付盗賊改方・長谷川宣以(のちの「鬼平」として知られる長谷川平蔵)の提言を受け、老中・松平定信が寛政2年(1790年)に開設した「人足寄場」である。無宿人や軽犯罪者に大工・建具・紙漉きなどの技術を習得させ、手間賃の一部を積み立てて出所時に渡すという、江戸時代としては先進的な更生・自立支援の施設だった。

日本初の洋式造船所

元佃のすぐ北に隣接していたこの石川島に、嘉永6年(1853年)、幕府が水戸藩主・徳川斉昭に命じて設けたのが「石川島造船所」である。ここで建造された洋式軍艦「旭日丸」は、日本で最初の洋式軍艦のひとつとされる。

明治期に入ると、石川島造船所は平野富二に引き継がれて民営化され、のちに渋沢栄一の資金支援を得て株式会社として整備された。日本初の民営洋式蒸気船「通運丸」の建造などを経て、造船や橋梁、産業機械の製造を担う工業地帯であり続けた。社名は昭和20年(1945年)に「石川島重工業」となり、昭和35年(1960年)に播磨造船所と合併して「石川島播磨重工業」(略称IHI)が発足、平成19年(2007年)7月1日に社名そのものを略称の「株式会社IHI」へ変更した。今の「現・IHI」は、この3段階の改称・合併を経た同一企業を指している。

1970年代に入ると、造船・重工業の構造不況や工場の郊外移転が進み、東京工場は順次閉鎖された(佃工場の操業終了は昭和54年/1979年)。都心からわずか2km圏内に、広大な工場跡地が生まれることになる。

着工から24年かけた再開発

三井不動産・住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)・東京都・東京都住宅供給公社の共同・一体開発として計画されたのが、都心居住を掲げる大規模再開発「大川端リバーシティ21」である。Wikipediaの記載によれば、敷地面積は約287,000平方メートル(約28.7ha)。1986年(昭和61年)に着工し、最も高いセンチュリーパークタワー(地上54階)をはじめとする超高層棟が段階的に完成し、最後に残ったオフィス棟が竣工したのは2010年(平成22年)——着工からおよそ24年をかけた息の長い開発だった。

計画全体では、超高層棟・高層棟・中層棟を合わせて住宅約2,500戸が供給された。工場の煙突とドックが占めていた敷地は、幅の広い歩道と公開空地、隅田川テラスを備えたウォーターフロントの住宅街に姿を変えた。旧IHI工場という単一の大口所有地だったからこそ、権利調整に時間を取られず、計画的なメガブロック開発が可能だったといわれる。

「超高層群」とひとくくりにされがちな3棟は、規模も竣工年もそれぞれ異なる。最も早く建ったシティフロントタワー(平成3年/1991年8月竣工)は地上31階・290戸。スカイライトタワー(平成5年/1993年竣工)は地上40階・336戸。もっとも新しく最も高いセンチュリーパークタワー(平成11年/1999年3月10日竣工)は地上54階・756戸で、竣工時は集合住宅として都内最高層(最高高さ約180m)だった。8年間で階数・戸数とも段階的に増えていった。

元佃の路地が私有地の積み重ねでできているのに対し、リバーシティ21の歩道・公開空地・隅田川テラスは計画段階から公共的な通り抜けを前提に設計されている。同じ「歩いて通れる場所」でも、成り立ちの違いがそのまま歩行者の体験の違いになって表れている。

出典
  • Wikipedia「大川端リバーシティ21」(座標・敷地面積・着工/竣工年を実測で確認)
  • 複数媒体(ニッポン旅マガジン・國學院大學・東洋経済オンライン等)による人足寄場の解説記事
  • 複数媒体(historist.jp・平野富二 公式サイト・中央区観光協会等)による石川島造船所の沿革記事
  • IHI公式サイト「沿革・あゆみ」(社名変遷の年)
  • 三井不動産公式ニュースリリース(センチュリーパークタワー竣工日・階数・戸数)、モダンスタンダード掲載の物件情報(シティフロントタワー・スカイライトタワーの階数・戸数・竣工年)

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