通史
佃島の成立——摂津の漁民が埋め立てた人工島
徳川家康との伝承と、正保年間の埋め立てで生まれた「元佃」の範囲。
家康と佃村漁民の伝承
佃1丁目の江戸期の姿を語るとき、必ず出てくるのが摂津国(現在の大阪市西淀川区)佃村の漁民と徳川家康を結ぶ伝承である。住吉神社などで紹介される由緒では、家康が神崎川で佃村・大和田村の漁夫の舟渡しを受けたことをきっかけに、御用魚の納入や川渡しの役を務めるようになったと伝えられている。大阪市の公式ページも「慶長(1596〜1615年)のころ、徳川家康に奉仕をしたことの恩賞として各種の特権をうけた」と記しており、家康との結びつきそのものは複数の自治体資料で共通して語られている。
ただし、佃村の漁民がいつ江戸へ移り住んだかについては、資料によって年代が揺れる。ある記録は天正18年(1590年)、家康が関東へ移った際に同行したとし、大阪市の公式ページは寛永7年(1630年)に一部の漁民が江戸鉄砲洲町へ移住したと記す。本サイトでは、どちらか一方を史実と断定せず、「移住の時期には複数の伝承がある」という留保つきで扱う。
正保の埋め立てと「元佃」
年代の揺れがある移住とは別に、比較的一致して語られるのが、隅田川河口の干潟を埋め立てて島を完成させた時期である。幕府は佃村の庄屋・森孫右衛門や、田蓑神社(摂津国の住吉社)の神職だった平岡権太夫好次らに率いられた漁民たちに干潟を与え、彼らは自力で埋め立てを進めて正保元年から2年(1644〜1645年)頃に島を完成させたと伝わる。埋め立てた漁民たちは、故郷の名を惜しんでこの地を「佃島」と名づけた。
後の時代に佃1丁目のさらに北側(現在のリバーシティ21の敷地を含む一帯)が石川島造船所の工場用地として使われるようになると、最初に埋め立てられたこの区域は「元佃(もとつくだ)」と呼ばれて区別されるようになる。現在の住所でいう佃1丁目1〜3番あたりが、この元佃のおおよその範囲にあたる。
漁業の特権と引き換えの義務
佃島の漁民は、ただ特権を与えられただけではなかった。江戸前(現在の品川沖から深川沖にかけての海域)で白魚をはじめとする漁をする権利を得る一方で、将軍家へ魚を上納する「御用魚」の義務も負っていた。伝えられるところでは、税の免除や水路の自由な通行といった特権と引き換えに、幕府の船手組(水軍にあたる組織)に組み込まれ、いざというときには水運の一翼を担う立場でもあったとされる。
漁業の権利と軍事・輸送上の役割がセットになっていた点は、佃島が単なる漁村ではなく、幕府にとって隅田川河口を押さえる拠点としての意味も持っていたことをうかがわせる。
- 住吉神社公式サイト「由緒」(sumiyoshijinja.or.jp)
- 中央区公式サイト「住吉神社文書」
- 大阪市公式サイト「佃漁民ゆかりの地」(city.osaka.lg.jp)
- 複数媒体による佃島の漁業特権・船手組編入の紹介記事(reports/tsukuda-history-culture.md所収の複数出典で共通する記述を採用)