文化・文学・芸能
月島という近代:碁盤目の区画と、もんじゃ焼きの誕生
元佃の不規則な路地に対し、月島は計画都市として生まれました。名物のもんじゃ焼きも、戦後に育った新しい食文化です。
浚渫土砂で生まれた埋立地
月島は、隅田川河口の航路を保つための浚渫(しゅんせつ)工事「東京湾澪浚(みおさらい)」で出た土砂を使って造成されました。明治16年(1883年)に始まったこの浚渫工事は、当初は土砂を単に処分していましたが、明治20年(1887年)から埋め立てに転用されるようになります。明治25年(1892年)に「月島一号地」(現在の月島1〜4丁目)が完成し、二号地(1894年)、新佃島(1896年)、三号地(1913年)と、埋め立ては段階的に広がっていきました。
地域史をまとめた資料によれば、大正9年(1920年)ごろには月島の人口は約3万人、工場は214か所にのぼったとされ、埋め立てからわずか30年ほどで、東京有数の工業地帯へと成長していたことがわかります。
碁盤目の月島、不規則な元佃
月島第一号埋立地は、江戸期の埋め立てとは違う近代の都市計画にもとづいて造成されました。街路は碁盤目状に区画され、通りには「西仲通り」のように整然とした名前がつけられています。同じ埋め立て地でありながら、元佃の不規則な路地とは対照的な、計画都市としての性格を持っています。
この違いは、佃島と月島が「隣り合っているが同じではない」ことを示す、もう一つの手がかりになります。佃島は漁民の自力開拓、月島は明治政府による近代都市計画です。2つの島は、成り立ちの時代も方法も異なります。
駄菓子屋から生まれたもんじゃ焼き
月島といえば、もんじゃ焼きの町として知られています。この名物は、佃煮のように江戸時代から続く食ではありません。西仲通り商店街で最も歴史のある店とされる「好美家」の公式サイトによれば、同店の創業は昭和29年(1954年)で、路地裏の駄菓子屋が近所の子どもたちにおやつとして提供していたのがもんじゃ焼きの原型だったとされています。工業地として発展した月島に、労働者向けの長屋と駄菓子屋が密集したことが、その土台になりました。
月島もんじゃ振興会協同組合の公式サイトによれば、昭和30年代の月島にはもんじゃ焼き店がわずか4軒しかありませんでしたが、平成に入るころから急増し、平成9年(1997年)4月には半径500m圏内に増えた28店の店主が集まって任意団体を発足させました。平成14年(2002年)9月には構成員47人で協同組合化し、令和元年(2019年)6月時点で加盟54店舗にまで発展しています。
佃煮は江戸期の漁村から、もんじゃ焼きは戦後の駄菓子屋文化から生まれました。同じ「隣の島の名物」でも、生まれた時代がまったく異なるのは、月島という埋め立て地そのものが、佃島よりずっと新しい土地だからです。
- このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産)「明治期以降の月島・佃周辺」
- 好美家 公式サイト(創業年)
- 月島もんじゃ振興会協同組合 公式サイト(発足の経緯・加盟店数)