名物・食
深川めしと、失われた干潟の記憶
運河だけでなく、東京湾の干潟も深川の暮らしを形づくっていました。
ここまで見てきた運河は、深川を物流の街にした水路です。しかしもう一つ、深川の暮らしを支えた水辺があります。深川の南側にかつて広がっていた、東京湾の干潟です。
漁師町としての深川
江戸時代の深川沖には、隅田川や荒川が運ぶ土砂によってできた広大な干潟があり、アサリやハマグリなどの貝類が豊富にとれる漁場でした。深川猟師町は寛永6年(1629年)、3代将軍徳川家光の時代に幕府の指定を受けて成立したと伝えられています。深川の漁師たちは幕府に魚介類を献上する代わりに、周辺水域での漁業権を認められていたとされ、江戸湾岸には同じように幕府へ海産物を納める見返りに漁業の特権を得た漁村がいくつも存在しました。深川はそうした水運と漁業が同時に成り立つ土地でした。
ぶっかけ飯から炊き込みご飯へ
この地域資源であるアサリを使った料理が「深川めし」です。もともとは、船の上で手早く食事を済ませたい漁師たちが考え出した簡便な賄い食で、あさりをネギとともに味噌や醤油ベースの出汁でさっと煮て、熱いまま冷や飯にかけて食べる「ぶっかけ飯」がその原形でした。のちに、大工や職人など陸で働く人たちのために、あさりの出汁で米を炊き上げる「炊き込みご飯」の形も広まっていきます。
今も味わえる場所
深川めしを提供する店の一つに、清澄白河駅のそばにある「深川宿」があります。昭和62年(1987年)の開店にあたり、初代店主が地元の漁師や住民から聞き取った作り方を復元し、現代に伝えています。干潟そのものは失われても、その干潟が育てた料理は今も実際に食べられる形で残っています。
深川めしは、干潟という消えた地形と、水運都市が生んだ労働者文化が結びついてできた、この土地固有の食文化です。運河の跡を歩いたあとに深川めしを食べると、この街が水路だけでなく、海とも近い場所だったことを思い出すきっかけになります。