深川はどうやってできたか

干潟だった土地が、運河が張り巡らされた水運都市に変わるまで。

江戸時代より前、今の江東区西部にあたる深川一帯は、隅田川と荒川の河口に広がる遠浅の干潟と湿地だった。人が住む土地としてこの場所が動き出すのは、徳川家康の江戸入りにともなうインフラ整備がきっかけになる。

天正18年(1590年)ごろ、行徳の塩田から江戸へ塩を運ぶための水路として、小名木川が開かれた。この川の開削を境に、北岸と南岸の両方で埋め立てと開墾が進んでいく。

「深川」という地名

江東区の公式サイトによると、慶長年間(1596〜1615年)の初め、摂津国(現在の大阪府と兵庫県にまたがる地域)から移り住んだ深川八郎右衛門という人物が、小名木川の北岸一帯を開拓した。その姓がそのまま村の名前になったというのが、地名の由来として伝えられている。

大火のあとの急速な埋め立て

深川一帯が本格的な市街地になるのは、明暦3年(1657年)の明暦の大火のあとだ。江戸市中の復興と防火対策の一環として、幕府は深川の埋め立てを一気に進め、武家屋敷や寺社、物流を担う町人地をここへ移した。同時に、格子状に運河(掘割)を巡らせ、水運を前提にした街区を作り上げていく。

このとき張り巡らされた運河網の多くは、明治以降、そして昭和の高度成長期に姿を消していく。次の記事からは、その運河の跡が今の深川にどんな形で残っているかを、実際に歩いて確かめられる場所を中心に見ていく。

出典

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