産業・生業

木場の移り変わり、貯木場から防災公園へ

江戸の建築需要を支えた材木の集積地は、なぜ緑地に変わったのか。

深川の産業を支えたもう一つの水辺が「木場」、すなわち貯木場です。木場もまた、運河そのものではありませんが、材木を浮かべて保管するための広大な水面と掘割網を持つ、水運と一体化した空間でした。

火事の街から生まれた材木の集積地

明暦3年(1657年)の明暦の大火のあと、幕府は市中の材木置場を郊外へ移す方針をとりました。当初は永代島周辺に集められていた材木置場は、その後の市街地拡大にともなって東へ移り、元禄14年(1701年)ごろ、現在の木場公園周辺にあたる一帯へ再移転しました。以後、木場は広大な貯木池と掘割網を持つ一大物流拠点として、江戸から東京にかけての建築需要を支え続けることになります。材木は川から運び込まれ、掘割の水面に浮かべたまま保管されました。木を陸に上げずに水に浮かべておくことで、乾燥による割れを防ぎ、火災の延焼も防ぐという実利的な理由があったのです。

水運から陸運へ、そして緑地へ

昭和に入ると、地盤沈下や過密化による防災上のリスク、トラック輸送への転換による水運の衰退が重なり、木場のあり方は見直しを迫られます。江東区の公式サイトによれば、昭和44年(1969年)の「江東再開発構想」の中で防災拠点の一つと位置づけられ、材木関連業者は昭和40年代後半から新木場へ移転していきました。

移転が進んだあと、かつて材木を浮かべて保管していた広大な水面と、それをつなぐ掘割は埋め立てられ、大規模災害時の避難場所にもなる「木場公園」として整備されました。約280年にわたって材木を浮かべ続けた水面と掘割は、今は緑地としての役割に変わっています。

木場親水公園、掘割そのものが残る場所

木場公園のすぐそばには、木場公園とは別に「木場親水公園」という細長い公園があります。ここは貯木場の水路網の一部だった「大島川東支川」という掘割を、昭和47年(1972年)から10年をかけて整備し直した場所で、延長0.9km、面積1.9haにわたって水路そのものの形が今も残っています。石積みの護岸、木製の太鼓橋、岸辺の灯籠、材木を筏に組んで操った川並(かわなみ)を模した像などが配置されており、木場公園の広大な緑地とは対照的に、掘割の幅や水面をそのまま体感できます。木場を歩くなら、防災公園として整備された木場公園と、掘割の姿を残す木場親水公園の両方を見比べると、貯木場という場所の性格がより具体的に分かります。

木場の移り変わりの年表の図 明暦の大火をきっかけにした材木置場の移転から、現在地への再移転、防災拠点としての位置づけ、新木場への移転までの年表。 1657 明暦の大火 材木置場を郊外へ 1701頃 現在地へ 再移転 1969 防災拠点に 位置づけ 現在 木場公園・ 親水公園
約280年にわたって材木を浮かべ続けた貯木場は、昭和44年(1969年)の江東再開発構想で防災拠点と位置づけられ、材木関連業者の新木場移転を経て、今は木場公園・木場親水公園という緑地に変わっています。
出典

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