埋葬施設の移り変わり|竪穴式石室から横穴式石室へ
古墳の内部には、遺体を納める石室があります。この石室の作りは、古墳時代を通じて大きく変わり、その変化が誰を葬れるかという範囲を広げていった。
竪穴式石室
古墳時代の前期から中期にかけて使われたのが、竪穴式石室です。
墳丘の頂から縦に穴を掘り、そこに木の棺や粘土でくるんだ棺を据え、まわりを石で積み上げて天井石でふさぎます。棺には、木の棺のほか、石を組み合わせたり石をくりぬいたりした石棺が使われることもありました。一度ふさげば開くことはなく、ただ一人の首長を、他から隔てて葬るための施設でした。葬られた人を、特別な存在として地上から切り離す考え方が、この閉じた構造に表れています。
竪穴式石室と横穴式石室の断面(模式図)。竪穴式は墳頂から縦に穴を掘って密閉し、ひとりを葬ります。横穴式は側面に入り口を開け、玄室と羨道をもち、あとから追葬ができます。
横穴式石室と追葬
古墳時代の後期になると、横穴式石室が広まります。朝鮮半島から伝わったこの形式は、墳丘の側面に入り口を開け、遺体を納める部屋へと通路でつなぎます。
遺体を納める部屋を玄室といい、そこへ通じる通路を羨道(せんどう)といいます。入り口を開け閉めできるため、あとから別の人を同じ石室に葬る追葬ができるようになりました。
この違いは大きなものです。ひとりだけを隔てて葬る竪穴式に対し、横穴式では家族や一族を同じ墓に重ねて葬れます。葬るという特権が、限られた首長から、より広い層へと開かれていきました。
群集墳の登場
追葬ができる横穴式石室の広まりとともに、小さな古墳が一か所に密集して築かれる群集墳が各地に現れました。古墳を築く権利が、地域の有力な層にまで広がったことを示しています。長野県の大室古墳群は、石を積み上げて築く積石塚や合掌形の石室をもつ群集墳として知られています。
副葬品の移り変わり
石室に納められた副葬品も、時期とともに性格を変えました。
前期には、鏡や玉といった、祭りや呪いに関わる品が中心でした。中期以降になると、鉄製の武器や武具、馬具、須恵器といった実用的な品が増えていきます。葬る人の力の示し方が、祭りをつかさどる性格から、軍事や実務を担う性格へと移ったことがうかがえます。
前期の鏡のなかでも数が多いのが、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)です。縁の断面が三角形をなし、鏡の背には中国の神仙思想にもとづく神や獣が表されます。同じ鋳型から作られたとみられる鏡が各地の古墳から出土することから、大和の王権が各地の首長に配り、つながりの証としたのではないかという見方があります。魏の年号を記した鏡もあり、魏志倭人伝が伝える卑弥呼への銅鏡百枚と結びつける説も知られています。いっぽうで国内で作られたとする説などもあり、その性格については定説をみていません。古墳の広がりが王権とどう結びついたかは 古墳と古墳時代の基礎 でも扱う。
副葬品がそのまま残っているかどうかは、墓によって異なります。後の時代に石室が開けられ、中の品が持ち出された古墳も少なくありません。盗掘を受けていない墓が見つかれば、納められた品の組み合わせがそのまま分かるため、手がかりの価値は大きなものです。墳丘の下に隠れて未盗掘のまま残った王墓は、地中海の世界でも見つかっています(考古学が語る王国:ヴェルギナとペラ)。
九州北部などでは、石室の壁に文様や絵を描いた装飾古墳も見られます。赤や青などの顔料で、円や三角の文様のほか、船や人、馬などが描かれ、当時の人々の死をめぐる考え方をうかがわせます。石室は、遺体を納めるだけの空間ではなく、あの世への思いを表す場でもありました。
こうした古墳の力の頂点に立つのが、大阪の巨大な前方後円墳です。次は 百舌鳥・古市古墳群と仁徳天皇陵古墳 を見る。