関東大震災と谷中、被害を分けた台地と低地
同じ台東区の中でも、地形の高さの違いが被害を大きく分けました。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で、現在の台東区にあたる浅草区と下谷区は大きな火災被害を受けました。浅草区はほぼ全域が焼失し、下谷区でも上野台地より東側の低地部(御徒町、入谷、根岸など)はほとんど全焼したと伝えられています。
これに対し、上野台地の上に位置する谷中地区は、火災の延焼ルートから外れ、壊滅的な被害を免れました。
崖線が延焼を止めた
低地側から発生した火災は、上野台地の崖線と、寛永寺や天王寺の広大な緑地や墓地に突き当たる過程で勢いを失いました。谷中が高台にあったこと、そしてその高台の縁に寺院の広い境内が連なっていたことの2つが重なり、内側への延焼を防いだと説明されています。
隣接する区の被害規模
関東大震災全体の死者・行方不明者は約10万5千人にのぼり、その多くが火災による焼死でした。浅草区に近い吉原遊郭では、遊女たちが逃げ込んだ弁天池だけで490名が命を落とし、田中小学校の敷地でも1,081名が亡くなったと記録されています。単一の避難場所での犠牲者数としては際立って大きいこれらの被害は、いずれも谷中と同じ台東区内で起きました。同じ区の中でこれほどの被害が出た一方、谷中地区は台地という地形の違いだけで、壊滅を免れた側に回りました。
この「台地の上は焼けにくい」という構図は、20年余りのちの東京大空襲でも、形を変えてもう一度繰り返されることになります。
出典