正岡子規と子規庵——句会・歌会を主宰した8年半
下根岸の借家は、空襲で焼けたのち間取りのまま再建された。
下根岸の借家で過ごした晩年
俳人・正岡子規は明治27年(1894年)から没するまでの8年半、谷中に隣接する下根岸(現・荒川区)の借家で暮らした。この「子規庵」を病室兼書斎としながら句会・歌会を主宰し、高浜虚子・伊藤左千夫・長塚節らに加え、夏目漱石や森鴎外も参加したと伝わる。
病床から生まれた『病牀六尺』
子規は明治22年(1889年)に喀血し、脊椎カリエスの手術を経て、この家にこもりながら「墨汁一滴」「病牀六尺」といった随筆で写生文という新しい文体を切り開いた。病室の障子は当初は普通の紙障子だったが、亡くなる3年前にガラス戸へ替えられ、寝たきりの子規が庭を眺められるようにした。
空襲で焼け、間取りのまま再建
建物は昭和20年(1945年)の空襲で焼失したが、5年後に当時の間取りのまま再建された。谷中に隣接する下根岸の一角に、明治の文人の暮らしぶりが今も伝えられている。
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