まとめ、谷中はなぜ残ったのか
単なる幸運ではなく、地形と都市の作りが重なった結果。
谷中の町並みは、単に「運良く焼け残った」だけの場所ではありません。ここまで見てきたとおり、いくつかの要因が重なって今の姿があります。
まず、明暦の大火のあとの寺院移転政策によって、広い境内を持つ寺院が谷中の縁に集まっていたこと。次に、谷中が本郷台地から続く高台の上にあり、低地で発生した火災が延焼しにくい地形だったこと。そして1945年の空襲では、谷中を焼き尽くすほどの大規模な火災が起きる条件が、たまたま重ならなかったこと。
一方で、谷中がまったく無傷だったわけではありません。3月4日の空襲では、谷中小学校周辺の一角が現実に被害を受け、今も三四真地蔵尊がその記憶を伝えています。谷中の歴史は「焼けなかった町」ではなく、「焼けたところと焼けなかったところが、同じ地区の中にはっきり分かれた町」として理解するほうが実態に近いといえます。
さらに、震災と空襲という20世紀の災厄をくぐり抜けたものが、必ずしも永遠に残るわけでもありません。経王寺の山門に残る弾痕は、それより古い明治維新の戦乱を生き延びた証拠ですが、天王寺の五重塔は震災と空襲の両方を耐えたあと、昭和32年の放火事件という平時の出来事で失われています。「焼け残った」という状態は、一度得られれば終わりの結果ではなく、その後も維持され続けなければならない状態なのだと分かります。
戦後は、この残った町並みを守ろうとする住民の活動が、今の谷中の姿を形づくりました。地形の偶然と、人の意思の両方が重なって、この町は今の形で残っています。