谷中霊園と徳川慶喜の墓
天王寺の境内地から始まった、都立霊園と寺院墓地が入り組む場所。
都立谷中霊園は、最初から単一の公営墓地として作られたわけではありません。もともとは天台宗の名刹、天王寺の広大な境内地でした。
開設から改称まで
明治政府は明治7年(1874年)9月1日、天王寺の境内地の一部を引き継ぎ「谷中墓地」として開設しました。その後明治22年(1889年)に東京市へ移管され、昭和10年(1935年)に現在の「谷中霊園」へと改称されています。約10万平方メートルの敷地に、今も約7,000基の墓石が並んでいます。園内には、都立霊園の敷地の中に寛永寺や天王寺が所有する墓地がモザイク状に入り組む、複合的な構造が残っています。
戦火をくぐり抜けた五重塔が、平時に失われた
天王寺には、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルになったことで知られる五重塔がありました。正保元年(1644年)創建、1772年の大火で焼失したのち1791年に再建されたこの塔は、関東大震災も東京大空襲も生き延びています。しかし昭和32年(1957年)7月6日未明、塔の中で発生した放火心中事件によって全焼し、心柱だけを残して失われました。震災や戦災という大きな災厄を耐え抜いた建物が、平時の事件で失われたという事実は、谷中の「焼け残り」が絶対の幸運ではないことを物語っています。
最後の将軍が神式で葬られた理由
園内には、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜の墓所もあります。歴代の将軍の多くが寛永寺や増上寺の仏式霊廟に葬られているのに対し、慶喜だけは神式の円墳という異例の形で葬られました。よく紹介される理由は、大政奉還ののちに公爵の地位を与えてくれた明治天皇への感謝と恭順を示すため、慶喜自身が神式での埋葬を遺言したというものです。
延焼を防いだ広さ
約10万平方メートルという谷中霊園の広さは、著名人の墓所が集まる場所であると同時に、周辺の寺院の境内と合わせて、震災や空襲の際に延焼を食い止める緩衝地帯としても働いたと考えられています。