谷中はなぜ寺町になったのか
幕府の防災政策が、農村地帯を50を超える寺院が並ぶ寺町に変えました。
谷中はもともと、本郷台地の東端に広がる農村地帯でした。この土地が寺町としての性格を強めていくきっかけは、寛永2年(1625年)、天海僧正による東叡山寛永寺の建立です。寛永寺の周辺に、その塔頭や子院が次々と建てられていきました。
明暦の大火をきっかけにした集団移転
谷中が本格的な寺町になった直接のきっかけは、明暦3年(1657年)の明暦の大火でした。国立国会図書館のレファレンス協同データベースが示す典拠『谷中叢話』によれば「明暦の大火後、多くの寺院が神田寺町から移転して来たので、ここに一大寺町が建設された」といいます。同じく『谷中の今昔(しるべ)』は「明暦から宝永に亘る五十年間に」22の寺院が谷中に建立されたと記録しています。
幕府にとってこの移転は、単なる区画整理ではありませんでした。広い境内と多くの樹木を持つ寺院を市街地の外縁部に集めることは、そのまま火災の延焼を防ぐ緩衝地帯を作ることを意味していました。約1km四方の範囲に50を超える寺院がひしめく、高密度な寺町がこうして生まれました。
江戸から続く戦乱の記憶
谷中の寺院が経験した戦乱は、実は明治維新の時点で一度ありました。慶応4年(1868年)の上野戦争で、寛永寺に立てこもった彰義隊の一部は、敗走の途中で谷中の寺院にも逃げ込みました。西日暮里の経王寺(明暦元年、1655年の創建)はその一つで、新政府軍の攻撃を受け、天保7年(1836年)建立の山門には今も銃撃の弾痕が残っています。谷中の寺町は、20世紀の震災や空襲より前から、すでに一度戦火をくぐり抜けていたことになります。
このとき偶然に形づくられた「広い境内が並ぶ地形」が、後の関東大震災や東京大空襲で、谷中を守る側に回ることになります。
- 1三四真地蔵尊
- 2本龍寺
- 3鹿島湯跡(不忍通り沿い)
- 4谷中銀座商店街
- 5谷中霊園
- 6寺町一帯(経王寺ほか)
●被災したエリア ●焼け残ったエリア