亀戸事件|関東大震災の混乱で起きた労働運動関係者の殺害
亀戸の名は、江戸の名所としてだけでなく、大正時代のある事件によって全国に知られることになりました。「亀戸事件」です。事件は当局によって1か月以上隠され、公表後も警察発表と遺族側の証言は食い違いました。本サイトでは、事件直後から真相究明にあたった自由法曹団の記録を検討した学術研究にもとづき、断定を避けて紹介します。
関東大震災の混乱のなかで
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災から数日のうち、南葛飾郡(現在の江東区・墨田区一帯)は流言や自警団の活動が広がる混乱状態にありました。この混乱のなかで、亀戸警察署に検束されていた労働運動関係者10名が、習志野騎兵第13連隊(指揮官・田村春吉少尉)の兵士によって殺害されました。この出来事は「亀戸事件」と呼ばれています。同じ時期、亀戸署では自警団員4名も別に殺害されており、当局はこちらも合わせて発表しています。
殺害された正確な日時(9月3日夜とする証言と、4日夜〜5日未明とする警察発表がある)については、事件直後の関係者の証言を丹念に検討した法政大学大原社会問題研究所の研究でも、なお異説が残ると指摘されています。本サイトも、どちらか一方を史実と断定しません。
殺害された10人
事件直後、遺族や労働組合の依頼を受けた自由法曹団(布施辰治・山崎今朝弥ら)の弁護士たちが、家族や友人から聞き取りを行い『亀戸労働者殺害事件調書』を作成しました。ここに名前が残る犠牲者は、純労働者組合の平沢計七・中筋宇八、南葛労働会の川合義虎(日本共産青年同盟初代委員長)・北島吉蔵・山岸実司・鈴木直一・近藤広造・加藤高寿・吉村光治・佐藤欣治の10名です。南葛飾地区は当時、工場労働者を中心とした労働運動が活発だった地域で、亀戸署と南葛労働会・純労働者組合はこれ以前から労働争議をめぐって対立を重ねていました。
殺害した兵士について、氏名が判明しているのは指揮官の田村春吉少尉のみです。個々の兵士の氏名は、現在確認できる資料の範囲では特定されていません。
警察が語らなかったこと
亀戸警察署は、検束者の安否を尋ねてきた家族に対し「本庁へ送った」「もう釈放した」などと事実と異なる説明を続けました。その一方で遺体は個別に検視されることなく、他の身元不明の遺体とともに焼却され、誰の遺骨か判別できない状態にされています。事件が公表されたのは、発生から1か月以上たった10月10日でした。この日は、同時期に世間を騒がせていた別の事件(憲兵大尉による社会運動家殺害「甘粕事件」)の公判が始まった直後にあたり、当局が公表の時期を選んだ可能性が研究で指摘されています。
政府の公式答弁と、その根拠の妥当性
同年末の第47帝国議会で、衆議院議員の質問に対し、内務大臣・陸軍大臣の連名による答弁書が発表されました。そこでは、検束者らが「革命歌を高唱し騒擾を極め」、軍への応援要請後も抵抗したため、「衛戌勤務令第十二」にもとづき兵士が刺殺したと説明されています。
この条文は、兵士が正当防衛や暴徒の鎮圧などやむを得ない場合に兵器の使用を認めるものであり、殺害そのものを認める規定ではありません。研究では、検束者らが他の在監者から引き離されたあとに殺害されている点や、遺体を身元不明のまま焼却した点などから、この説明には矛盾が多いことが指摘されています。本サイトは、これが事件の唯一の真相であるとは断定せず、当局の公式説明として、また現時点で分かっている経緯として紹介します。
今も続く追悼会
江東区内の浄心寺には、事件の犠牲者を追悼する碑があります。地元では現在も毎年9月に追悼会が開かれており、2025年(令和7年)には事件から102年にあたる会が開かれました。100年を超えて追悼が続いていること自体が、この事件が地域の記憶として受け継がれてきたことを示しています。
まとめ
- 関東大震災直後の混乱のなかで、亀戸警察署に検束された労働運動関係者10名(平沢計七・川合義虎ら)が習志野騎兵第13連隊に殺害された。正確な日時には異説が残る
- 警察は家族に虚偽の説明をしながら遺体を身元不明のまま焼却し、事件を1か月以上公表しなかった
- 政府は「衛戌勤務令第十二」を法的根拠に挙げたが、この条文は兵器の使用条件を定めたもので殺害そのものを認める規定ではなく、研究では説明の矛盾が指摘されている
- 江東区内の浄心寺では今も毎年9月に追悼会が開かれている