東京大空襲と旧城東区|下町を焼いた昭和20年3月10日

最終更新: 2026年9月30日

天神の藤や梅屋敷でにぎわった亀戸は、昭和20年(1945年)3月10日、一夜で大きな被害を受けます。東京大空襲です。今の亀戸には、その夜を伝える慰霊碑が実際に残っています。

昭和20年3月10日の空襲

昭和20年(1945年)3月10日未明、米軍のB29爆撃機による大規模な空襲が、隅田川両岸の下町地域を襲いました。現在の台東区・墨田区・江東区にあたる地域は特に大きな被害を受け、この一夜で東京全体でおよそ10万人が亡くなったと伝えられています。旧城東区(現・江東区の亀戸・大島・砂町一帯)も、この空襲の被害地域に含まれていました。

城東区や現・江東区だけを対象にした被害者数の確定的な統計は、本サイトで確認できた一次情報の範囲では見つかりませんでした。ここでは、東京全体の被害規模と、亀戸地区に実在する慰霊碑の記述にもとづいて紹介します。

亀戸地区に残る慰霊碑

江東区亀戸3丁目には、「昭和殉難者慰霊碑」という慰霊碑があります。昭和21年(1946年)3月10日、空襲からちょうど1年後に建立されたものです。碑の説明には、空襲の夜この地域で多数の焼死者が出たこと、全身が焼け焦げた状態で発見された遺体も多かったことが記されています。天神の藤や梅屋敷でにぎわった土地が、一夜で焼け野原になったことを、この碑は今も伝えています。低地の町を水害から守ってきた亀戸水神宮も、この空襲で大きな被害を受け、昭和35年(1960年)に再建されました。

空襲の被害は、区の再編にもつながった

戦災は、行政の仕組みにも影響を残しました。東京都総務局の資料によれば、昭和22年(1947年)3月10日付の告諭第1号は、35区を22区へ再編する理由として「戦災によって各区の人口その他に甚だしい差異が生じたため、これを調整しないと復興その他の施策に支障があること」を挙げています。同年3月15日、東京の35区は22区へ再編されました(同年8月にはさらに板橋区から練馬区が分かれ、現在の23区になりました)。城東区が深川区と合併して江東区になったのも、この年の再編の一つです。空襲の被害は、区の姿そのものを変えるきっかけの一つになりました。

まとめ

  • 昭和20年(1945年)3月10日の空襲で、隅田川両岸の下町地域は大きな被害を受け、旧城東区もその被害地域に含まれた
  • 城東区単独の被害統計は確認できていないため、断定的な数字は記載しない
  • 亀戸3丁目の「昭和殉難者慰霊碑」(1946年建立)が、当時の被害の具体的な記述を今に伝えている
  • 昭和22年(1947年)3月10日付の告諭第1号は、区の再編理由の一つに戦災による人口格差の是正を挙げている。城東区はこの年、深川区と合併し江東区になった

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