亀戸ともう一人の浮世絵師|三代歌川豊国と五ノ橋豊国通り

最終更新: 2026年9月21日

浮世絵の記事では、歌川広重が描いた亀戸を紹介しました。しかし亀戸に縁があった浮世絵師は、広重だけではありません。同時代に「豊国にかほ」と謳われた人気絵師、三代歌川豊国(歌川国貞)です。

「亀戸豊国」と呼ばれた絵師

歌川国貞(うたがわくにさだ)は、天明6年(1786年)に江戸本所の竪川五ツ目で生まれた浮世絵師です。Wikipediaによれば、のちに亀戸に居宅を構えたことから「亀戸豊国」と呼ばれたと伝えられています。

美人画・役者絵で人気を博し、版画作品は生涯で1万点以上にのぼるとされます。足立区立郷土博物館の資料によれば、当時の絵師を並べた「豊国にかほ、国芳むしや、広重めいしよ」という言い回しがあり、似顔絵(役者絵)といえば豊国というほどの評価を得ていました。

実は三代目という、ねじれた由緒

歌川国貞は弘化元年(1844年)、師の名跡を継いで「二代豊国」を名乗りました。ところが、国貞より前にも「二代目豊国」を名乗った絵師(豊重)がすでにいたため、後世では初代・豊重に続く三代目として扱われるようになりました。

この結果、亀戸の光明寺に現存する国貞の墓碑には、本人が名乗ったとおり「二世歌川豊国の墓」と刻まれています。しかし美術史の上では「三代歌川豊国」として語られるのが一般的です。同じ人物でも、本人の自称と後世の呼び方がねじれている、珍しい例といえます。

広重との合作「双筆五十三次」

国貞と歌川広重は、単なる同時代の絵師というだけではありません。足立区立郷土博物館の資料によれば、二人は晩年、「双筆五十三次(そうひつごじゅうさんつぎ)」という合作のシリーズを残しています。国貞が街道の宿場に立つ人物を、広重が背景の風景を描くという分業でした。

1786本所で誕生(のち亀戸に住む)1844(実質)三代目豊国を襲名1854広重と合作「双筆五十三次」1864没・亀戸の光明寺に眠る

三代歌川豊国(国貞)の年表(模式図)。本所に生まれ、のち亀戸に住んで「亀戸豊国」と呼ばれました。1844年に(実質)三代目豊国を襲名し、1854年には広重と「双筆五十三次」を合作。1864年に没し、亀戸の光明寺に葬られました。

亀戸を描いた広重と、亀戸に住んだ国貞。二人の浮世絵師は、作品の上でも実際の縁でも、亀戸という土地と結びついています。

商店街と庭園に残る名前

国貞が晩年を過ごした亀戸の地名は、今も商店街の名前に残っています。江東区観光協会の説明によれば、亀戸駅南口から徒歩2分、明治通り沿いに約250メートル続く「五ノ橋豊国通り商店会」は、国貞が住んでいたとされる「五ノ橋(旧五ツ目の渡し)」付近にちなんで名づけられました。

商店街の南側には、日本庭園「三代豊国五渡亭園」も整備されており、朱塗りの反り橋や池のある、江戸情緒を感じられる空間として、季節のイベントにも使われています。

国貞は「一雄斎」「五渡亭(ごとてい)」「香蝶楼」など複数の号を使い分けました。庭園の名前「五渡亭園」は、この号にちなんだものです。

まとめ

  • 歌川国貞(三代歌川豊国)は天明6年(1786年)生まれ、亀戸に住み「亀戸豊国」と呼ばれた人気の美人画・役者絵師
  • 本人は「二代豊国」を名乗ったが、先行する二代目がいたため後世は「三代目」として扱う。光明寺の墓碑は本人の自称のまま「二世」と刻まれている
  • 広重との合作「双筆五十三次」を残し、元治元年(1864年)に没して亀戸の光明寺に葬られた
  • 五ノ橋豊国通り商店会・日本庭園「三代豊国五渡亭園」に、その名が今も残る

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