アレクサンドロス大王の東征とヘレニズム

最終更新: 2026年7月3日

アレクサンドロス3世は、父が築いた軍を率いて東へ向かい、わずかな年月でギリシャからインドにいたる広大な世界を結びつけた。

アリストテレスに学ぶ

アレクサンドロス3世は紀元前356年に生まれた。母オリンピアスは、エペイロスの王家の出とされる。13歳か14歳のころ、父フィリッポス2世が家庭教師として招いた哲学者アリストテレスに学んだ。この教育が、後の彼の視野を広げたと語られることが多い。

東方遠征

紀元前336年に王位を継いだアレクサンドロスは、前334年に軍を率いてアジアへ渡り、東方遠征を始めた。彼は各地でアケメネス朝ペルシアの軍を破り、ついにこの大帝国を滅ぼした。遠征はさらに東へ進み、インダス川の流域にまで達した。

マケドニア小アジアエジプトペルシアインダス川西のマケドニアから東のインダス川へ(順路の模式図・地理は正確ではない)

東方遠征の順路の模式図。アレクサンドロスは西のマケドニアから小アジア、エジプトを経てアケメネス朝ペルシアを滅ぼし、東のインダス川の流域にまで達した。図は順序を示すもので、地理や経路は正確ではない。

征服した各地に、彼は自らの名を冠した都市アレクサンドリアを数多く築き、ギリシャ人を入植させた。これらの都市を通じて、ギリシャの言語や文化が広い地域へ広がっていった。とりわけエジプトに築かれたアレクサンドリアは、後に学問の都として栄えた。共通語となったギリシャ語(コイネー)は、地中海の東部から中東にかけての交流の言葉となり、のちに新約聖書が記される言語にもなった。

融合とあつれき

アレクサンドロスは、征服したペルシアの宮廷の儀礼を取り入れ、東西の融合を進めようとした。征服地にはギリシャ風の都市が生まれ、劇場や体育場がつくられていった。しかし、王がペルシア風の儀礼を求めたことは、従来のやり方を重んじるマケドニアの貴族たちとのあつれきを生んだ。

バビロンでの死

紀元前323年、アレクサンドロスはバビロンで急に世を去った。32歳だった。

死因については古代から諸説があり、毒殺、マラリア、髄膜炎、細菌による感染など、さまざまな説が唱えられてきた。現在も特定はされていない。後継者を明確に定めないままの死は、将軍たちの争いを招くことになる。

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