アレクサンドロス大王の東征とヘレニズム
アレクサンドロス3世は、父が築いた軍を率いて東へ向かい、わずかな年月でギリシャからインドにいたる広大な世界を結びつけた。
アリストテレスに学ぶ
アレクサンドロス3世は紀元前356年に生まれました。母オリンピアスは、エペイロスの王家の出とされています。13歳か14歳のころ、父フィリッポス2世が家庭教師として招いた哲学者アリストテレスに学びました。学びの場はミエザという地の学園であったと伝えられ、哲学や自然、政治などを学んだとされています。この教育が、後の彼の視野を広げたと語られることが多くあります。
東方遠征
紀元前336年に王位を継いだアレクサンドロスは、前334年に軍を率いてアジアへ渡り、東方遠征を始めました。この遠征は十年あまりのあいだに、ギリシャからエジプト、そしてインダス川の流域にまでおよびました。これほど広い範囲を、これほど短い年月で結びつけた例は、古代にはほかにありません。
東方遠征の道すじと四つの決戦の地図(北が上)。西のマケドニア(ペラ)を発ち、グラニコス・イッソスで勝ち、南のエジプトへ回ったのち、ガウガメラでアケメネス朝を破り、東のヒュダスペス(インダス川の支流)にまで達しました。◆が決戦の地、●がおもな都市で、位置はおおよその実地点。海岸線は Natural Earth のデータに基づきます。
遠征の帰趨は、アケメネス朝ペルシアとのあいだで戦われたいくつかの決戦で決まりました。
アジアに渡ってすぐの前334年、グラニコス川の戦いで、彼は出迎えたペルシアの太守(サトラップ)たちの軍を破り、小アジアへ進む道を開きました。翌前333年のイッソスの戦いでは、ペルシア王ダレイオス3世がみずから率いる大軍と、現在のトルコ南部で相対しました。数で劣りながらアレクサンドロスはこれを破り、ダレイオスは戦場を離れて東へ退きました。
決定的だったのは前331年、メソポタミアでのガウガメラの戦いです。ここでもダレイオス3世は大軍を集めましたが、アレクサンドロスはこれを打ち破りました。ダレイオスはふたたび逃れ、まもなく臣下の手で命を落とします。この勝利でアケメネス朝の力は折れ、アレクサンドロスは「アジアの王」を称しました。
遠征はさらに東へ進みました。前326年、インダス川の支流ヒュダスペスのほとりで、彼は地元の王ポロスと戦いました(ヒュダスペスの戦い)。象を用いるポロスの軍を破ったのち、アレクサンドロスは彼をこの地の統治者として遇しました。しかし、長い遠征に疲れた将兵はこれ以上東へ進むことを拒み、ここが東征の到達点となりました。
この遠征の経過をもっともくわしく伝えているのは、後2世紀に書かれたアリアノスの『アレクサンドロス東征記』です。アリアノスは、遠征に将軍として加わったプトレマイオスと、同じく従軍したアリストブロスの記録を主なよりどころにしたとされています。このプトレマイオスは、大王の死後にエジプトを手にするプトレマイオス1世その人です。遠征の記録は、それを戦った側の人間の手を経て伝わっています。
四つの決戦を並べると、次のようになります。
| 年 | 戦い | 場所 | おもな相手 | 意義 |
|---|---|---|---|---|
| 前334年 | グラニコス川 | 小アジア | ペルシアの太守たち | アジアへの足がかりを得る |
| 前333年 | イッソス | 現在のトルコ南部 | ダレイオス3世 | 大軍の王を破り優位を確立 |
| 前331年 | ガウガメラ | メソポタミア | ダレイオス3世 | アケメネス朝の力を折る |
| 前326年 | ヒュダスペス | インダス川の支流 | ポロス王 | 東征の到達点 |
征服した各地に、彼は自らの名を冠した都市アレクサンドリアを数多く築き、ギリシャ人を入植させました。これらの都市を通じて、ギリシャの言語や文化が広い地域へ広がっていきました。とりわけエジプトに築かれたアレクサンドリアは、後に学問の都として栄えました。共通語となったギリシャ語(コイネー)は、地中海の東部から中東にかけての交流の言葉となり、のちに新約聖書が記される言語にもなりました。
融合とあつれき
アレクサンドロスは、征服したペルシアの宮廷の儀礼を取り入れ、東西の融合を進めようとしました。征服地にはギリシャ風の都市が生まれ、劇場や体育場がつくられていきました。しかし、王がペルシア風の儀礼を求めたことは、従来のやり方を重んじるマケドニアの貴族たちとのあつれきを生みました。このように東西の文化が混ざり合っていく時代は、のちにヘレニズムと呼ばれるようになります。
バビロンでの死
紀元前323年、アレクサンドロスはバビロンで急に世を去りました。32歳でした。広大な帝国をまとめて引きつぐ後継者は、はっきりとは定められていませんでした。
死因については古代から諸説があり、毒殺、マラリア、髄膜炎、細菌による感染など、さまざまな説が唱えられてきました。現在も特定はされていません。後継者を明確に定めないままの死は、将軍たちの争いを招くことになります。