フィリッポス2世の軍制改革と覇権
フィリッポス2世は、弱小だったマケドニアを、ギリシャ世界の主導権を握る強国へと変えました。その土台は、彼が築いた新しい軍隊にありました。
テーバイでの学び
フィリッポス2世は、紀元前359年から前336年までマケドニアを治めました。王になる前、彼は若いころにギリシャの都市テーバイで人質として過ごしています。世界史事典の記述によれば、その期間はおよそ3年、前367年ごろからでした。当時のテーバイは、革新的な戦術で知られていました。フィリッポスはここで、密集した歩兵部隊による戦い方を間近で学んだとされています。人質という立場は不自由なものでしたが、当時のもっとも進んだ軍隊を間近で見る機会にもなりました。
軍制改革
帰国後、フィリッポスはマケドニア独自の軍制改革を進めました。中心となったのが、サリサと呼ばれる長い槍です。その長さは18から20フィート(およそ5.5から6メートル)におよび、相手のより短い槍が届かないうちに、こちらの穂先が敵に届きました。兵士たちはこの長槍を構えて密集し、槍ぶすまをつくって前進しました。接近しての戦いのために、彼らはクシフォスと呼ばれる短い両刃の剣もあわせて持ちました。
改革は装備だけにとどまりませんでした。フィリッポスは軍を、農民が季節ごとに集まる寄せ集めから、訓練を重ねた常備の職業軍へと変えました。世界史事典の伝える数によれば、歩兵はおよそ1万から2万4千へ、騎兵は600から3,500へと大きく増えました。とりわけ騎兵をこれだけ厚くしたことは、のちの戦いで打撃の中心となっていきます。彼はまた、伝統的なギリシャの密集隊(ファランクス)を組み替え、部隊ごとに指揮官を置いて、命令が行きわたるようにしました。長い槍の歩兵部隊に騎兵や軽装の兵を組み合わせたこの軍は、農作業の季節にとらわれずに遠征できる強みも持っていました。
サリサとファランクスの模式図。長槍サリサ(約5.5から6メートル)を構えた兵が密集し、後列の槍も前方に届いて、幾重もの槍ぶすまをつくりました。図は仕組みを示すもので、隊列の人数や寸法は正確ではありません。
カイロネイアとコリントス同盟
強化された軍を率いて、フィリッポスはギリシャ本土へ影響力を広げました。紀元前338年のカイロネイアの戦いで、彼はアテナイとテーバイの連合軍を破り、ギリシャ本土の主導権を握りました。
この戦いは、のちに大王となる息子アレクサンドロスの初陣でもありました。プルタルコスの伝えるところでは、当時18歳の王子は、テーバイの精鋭部隊「神聖隊」に最初に斬り込んだとされています。父が築いた軍のなかで、息子はすでに一翼を担っていました。父の代にととのえられた強い軍と、ギリシャ本土の主導権という土台は、そのまま次のアレクサンドロス3世の東方遠征へと引きつがれていきます。
カイロネイアの勝利は、それまで小国と見られがちだったマケドニアが、ギリシャの盟主となったことを世に示す出来事でした。その後、スパルタを除くギリシャ諸都市をまとめてコリントス同盟を結成し、その盟主となりました。同盟はペルシアへの遠征を決め、フィリッポスはその総司令官に選ばれました。
暗殺
しかし遠征を前にした紀元前336年、フィリッポスは護衛の一人パウサニアスによって暗殺されました。事件が起きたのは、古都アイガイ(現在のヴェルギナ)で、娘クレオパトラの結婚式のために人々が集まった祝いの場であったと伝えられます。暗殺の動機については古くからさまざまに語られてきましたが、確かなことは分かっていません。準備が進んでいたペルシア遠征は、王位を継いだ20歳のアレクサンドロス3世に託されることになりました。