ディアドコイの争いとアンティゴノス朝、ローマによる滅亡

最終更新: 2026年7月19日

アレクサンドロスの急死は、後継者を定めない権力の空白を残しました。将軍たちの長い争いを経て、マケドニアには新しい王朝が生まれ、やがてローマに飲み込まれていきます。

ディアドコイの争い

アレクサンドロスの死後、その将軍たち(ディアドコイ、後継者たち)が帝国の支配権をめぐって争いました。世界史事典によれば、この一連の戦争は紀元前323年ごろから前281年ごろまで、およそ40年を超えて続きました。

紀元前305年ごろ、各地の有力者たちはそれぞれ王を名乗るようになります。前301年のイプソスの戦いでは、アンティゴノス1世(隻眼王)が、リュシマコス、セレウコス、カッサンドロスの連合軍と戦って敗れ、戦死しました。これにより、帝国をふたたび一つにまとめる望みは絶たれました。

争いの果てに、アレクサンドロスの帝国はいくつかの王国に分かれました。おもなものを並べると、次のようになります。

王国おもな地域おこした将軍
プトレマイオス朝エジプトプトレマイオス
セレウコス朝西アジア(シリアなど)セレウコス
アンティゴノス朝マケドニアアンティゴノス2世ゴナタス
地中海黒海ペルシア湾カスピ海紅海N西アジアエジプトマケドニアアンティゴノス朝プトレマイオス朝セレウコス朝範囲は概略・正確な国境ではない

ディアドコイの争いののちに分かれたヘレニズム三王国の地図(北が上)。マケドニアを**アンティゴノス朝**、エジプトを**プトレマイオス朝**、シリアからペルシアにかけての西アジアを**セレウコス朝**が治めました。海岸線は Natural Earth のデータに基づき、色分けした範囲は勢力のおおよその広がりで、正確な国境ではありません。

これらの王国はそれぞれ数百年にわたって続き、地中海の東部から西アジアにかけての歴史を形づくりました。ギリシャの文化と東方の文化がまじりあうヘレニズムの世界は、こうした複数の王国のもとで育っていきました。

その後の道すじは、王国ごとに違いました。エジプトを治めたプトレマイオス朝は、首都アレクサンドリアを学問と交易の都として栄えさせ、三つのうちでもっとも長く続きました。しかし前31年のアクティウムの海戦に敗れ、最後の女王クレオパトラ7世の死とともに、前30年にローマのものとなりました。西アジアに広がったセレウコス朝は、最盛期には地中海からインダス川の流域にまでおよぶ広さを持ちましたが、しだいに領土を失い、前63年にローマの将軍ポンペイウスがシリアを併合して滅びました。マケドニアのアンティゴノス朝も、のちに述べるようにローマに敗れます。こうして、アレクサンドロスの帝国から分かれた三つの王国は、いずれも最後はローマに飲み込まれていきました。

アンティゴノス朝の確立

争いのなかから、マケドニアにはアンティゴノス朝が生まれました。アンティゴノス1世の孫にあたるアンティゴノス2世ゴナタスは、紀元前277年、侵入してきたガラティア人をリュシマキアの近くで撃退し、マケドニア王となりました。彼の治世は前283年から前239年におよび、王朝はここに安定した基盤を得ました。

ローマによる滅亡

紀元前3世紀の末から、マケドニアは西から迫るローマと衝突するようになります。両者のあいだでは、たびたびマケドニア戦争が戦われました。

紀元前168年のピュドナの戦いで、ローマ軍は当時の王ペルセウスを破りました。これがマケドニアの独立の実質的な終わりとなります。そして紀元前146年、マケドニアはローマの属州となりました。ギリシャからインドにまでおよんだ王国の歴史は、ここで一つの区切りを迎えました。

ただし、王国が生んだギリシャ語とヘレニズムの文化は、ローマの支配のもとでも東地中海に長く生きつづけました。政治の枠組みが変わっても、言葉や学問の流れはただちには途切れませんでした。

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