ディアドコイの争いとアンティゴノス朝、ローマによる滅亡
アレクサンドロスの急死は、後継者を定めない権力の空白を残した。将軍たちの長い争いを経て、マケドニアには新しい王朝が生まれ、やがてローマに飲み込まれていく。
ディアドコイの争い
アレクサンドロスの死後、その将軍たち(ディアドコイ、後継者たち)が帝国の支配権をめぐって争った。世界史事典によれば、この一連の戦争は紀元前323年ごろから前281年ごろまで、およそ40年を超えて続いた。
紀元前305年ごろ、各地の有力者たちはそれぞれ王を名乗るようになる。前301年のイプソスの戦いでは、アンティゴノス1世(隻眼王)が、リュシマコス、セレウコス、カッサンドロスの連合軍と戦って敗れ、戦死した。これにより、帝国をふたたび一つにまとめる望みは絶たれた。
争いの果てに、アレクサンドロスの帝国はいくつかの王国に分かれた。エジプトにはプトレマイオス朝が、西アジアにはセレウコス朝が生まれ、それぞれが数百年にわたって続いた。ギリシャの文化と東方の文化がまじりあうヘレニズムの世界は、こうした複数の王国のもとで育っていった。
アンティゴノス朝の確立
争いのなかから、マケドニアにはアンティゴノス朝が生まれた。アンティゴノス1世の孫にあたるアンティゴノス2世ゴナタスは、紀元前277年、侵入してきたガラティア人をリュシマキアの近くで撃退し、マケドニア王となった。彼の治世は前283年から前239年におよび、王朝はここに安定した基盤を得た。
ローマによる滅亡
紀元前3世紀の末から、マケドニアは西から迫るローマと衝突するようになる。両者のあいだでは、たびたびマケドニア戦争が戦われた。
紀元前168年のピュドナの戦いで、ローマ軍は当時の王ペルセウスを破った。これがマケドニアの独立の実質的な終わりとなる。そして紀元前146年、マケドニアはローマの属州となった。ギリシャからインドにまでおよんだ王国の歴史は、ここで一つの区切りを迎えた。
ただし、王国が生んだギリシャ語とヘレニズムの文化は、ローマの支配のもとでも東地中海に長く生きつづけた。政治の枠組みが変わっても、言葉や学問の流れはただちには途切れなかった。