ローマ属州から中世、そしてオスマンの時代へ
古代の王国が滅びたあとも、「マケドニア」という地名は残りつづけた。しかしその中身は、支配する者とそこに住む人々の移り変わりとともに、大きく変わっていった。
ローマからビザンティンへ
紀元前146年にローマの属州となったマケドニアは、ローマ帝国の一部として長い時代を過ごしました。帝国を東西に結ぶ幹線の道が通り、地域は交通の要としての役割も担いました。やがて帝国が東西に分かれると、この地は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の領域に入り、キリスト教が広まっていきました。
スラヴ人の定住
中世に入ると、バルカン半島には北方からスラヴ系の人々が移り住むようになりました。マケドニアの地でも、6世紀から7世紀にかけてスラヴ人の定住が進み、住民の構成は古代とは大きく変わっていきました。古代の王国を担った人々の言葉や文化と、新しく移り住んだスラヴ系の人々の言葉や文化は、別のものです。
この時代の宗教と文字をめぐる動きは、この地と深くつながっています。9世紀、スラヴ人への布教にあたった宣教師キュリロス(本名コンスタンティノス)は、この地方の都市テッサロニキの生まれでした。彼は弟のメトディオスとともに布教にあたり、そのためにグラゴル文字と呼ばれる文字を考案したと伝えられます。のちにスラヴ諸語で広く使われるキリル文字は、キュリロスの死後に弟子たちが整えたもので、その名にちなんで呼ばれるようになりました。文字を整えた弟子の一人とされるのが、オフリド(今日の北マケドニアにある都市)のクレメンスです。この地は、スラヴ世界の文字の広がりに、その始まりのところで関わっていました。
オスマンの長い統治
その後、この地はブルガリアやセルビアといった勢力の支配を経て、やがてオスマン帝国の版図に入りました。オスマン帝国による統治は、およそ500年という長い期間におよびました。この間、さまざまな民族と宗教の人々が、この地で隣り合って暮らしました。支配する勢力は変わっても、人々の言葉や信仰は、それぞれの共同体のなかで受けつがれていきました。それが、今日にいたるこの地の多様さの土台となりました。
支配の移り変わりを整理すると、次のようになります。
マケドニアの地を治めた勢力の移り変わりを示した帯年表(北が上ではなく、左から右へ時間が進む)。帯の幅は、その支配がおよそどれだけ続いたかを表します。ローマ帝国からその流れをくむ東ローマ(ビザンティン)帝国までが千年あまりを占め、6から7世紀にはスラヴ人の定住が進んだ。中世にはブルガリアやセルビアなどの勢力が入れ替わり、およそ1400年ごろから1912年まで、五百年ほどオスマン帝国の統治が続きました。年の区切りはおおよそのもの。
| 時代 | おもな支配 | この地の変化 |
|---|---|---|
| 前146年〜 | ローマ帝国、のち東ローマ(ビザンティン) | キリスト教が広まる |
| 6〜7世紀 | (スラヴ人の定住が進む) | 住民の構成が変わる |
| 中世 | ブルガリア、セルビアなど | 勢力が入れ替わる |
| 15〜20世紀初め | オスマン帝国(約500年) | 多くの民族と宗教が共存する |
19世紀から20世紀の初めにかけて、バルカン半島では各地の民族が独立を求める動きが強まりました。そのなかで「マケドニア」の地の帰属は、周囲の国々のあいだで争いの種となっていきます。こうして「マケドニア」は、古代の王国の名から、多くの民族と宗教が入りまじって暮らす一つの地域の名へと、その意味を変えていきました。この移り変わりが、現代の国名をめぐる問題の背景となります。