ローマ属州から中世、そしてオスマンの時代へ

最終更新: 2026年7月3日

古代の王国が滅びたあとも、「マケドニア」という地名は残りつづけた。しかしその中身は、支配する者とそこに住む人々の移り変わりとともに、大きく変わっていった。

ローマからビザンティンへ

紀元前146年にローマの属州となったマケドニアは、ローマ帝国の一部として長い時代を過ごした。帝国を東西に結ぶ幹線の道が通り、地域は交通の要としての役割も担った。やがて帝国が東西に分かれると、この地は東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の領域に入り、キリスト教が広まっていった。

スラヴ人の定住

中世に入ると、バルカン半島には北方からスラヴ系の人々が移り住むようになった。マケドニアの地でも、6世紀から7世紀にかけてスラヴ人の定住が進み、住民の構成は古代とは大きく変わっていった。古代の王国を担った人々の言葉や文化と、新しく移り住んだスラヴ系の人々の言葉や文化は、別のものである。

この時代、スラヴ人へのキリスト教の布教のために、兄弟の宣教師キュリロスとメトディオスが文字の体系を整えたと伝えられる。その流れをくむ文字が、後にスラヴ諸語で広く使われるキリル文字の源流の一つになったとされる。

オスマンの長い統治

その後、この地はブルガリアやセルビアといった勢力の支配を経て、やがてオスマン帝国の版図に入った。オスマン帝国による統治は、およそ500年という長い期間におよんだ。この間、さまざまな民族と宗教の人々が、この地で隣り合って暮らした。支配する勢力は変わっても、人々の言葉や信仰は、それぞれの共同体のなかで受けつがれていった。それが、今日にいたるこの地の多様さの土台となった。

19世紀から20世紀の初めにかけて、バルカン半島では各地の民族が独立を求める動きが強まった。そのなかで「マケドニア」の地の帰属は、周囲の国々のあいだで争いの種となっていく。こうして「マケドニア」は、古代の王国の名から、多くの民族と宗教が入りまじって暮らす一つの地域の名へと、その意味を変えていった。この移り変わりが、現代の国名をめぐる問題の背景となる。

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