亀戸天神社|菅原道真をまつる「文」の社と藤・うそ替え

最終更新: 2026年6月22日

亀戸の「文」を担うのが、菅原道真公をまつる亀戸天神社です。太宰府天満宮にならってつくられたこの社は、学問の神として受験生に親しまれるとともに、藤の花と太鼓橋が美しい、四季の名所としても知られています。

学問の神・亀戸天神社

亀戸天神社は、学問の神として名高い菅原道真(すがわらのみちざね)公をまつる社です。あわせて、菅原家の祖神とされる天菩日命(あめのほひのみこと)をまつっています。受験シーズンには合格祈願の参拝者でにぎわう、東京を代表する天満宮のひとつです。

太宰府にならった創建

神社の公式の由緒によれば、亀戸天神社の始まりは江戸時代の前期にさかのぼります。

正保3年(1646年)、九州・太宰府天満宮の神官で、菅原道真公の子孫にあたる菅原大鳥居信祐(すがわらおおとりい のぶすけ)が、天神の神像を飛梅(とびうめ)の枝で彫り、天神信仰を広めるために諸国をめぐりました。やがて江戸の亀戸村にたどり着いた信祐は、すでにあった小さな祠にその神像をまつります。

折しも、江戸の町は明暦の大火(1657年)で大きな被害を受けており、幕府はその復興を進めていました。天神を篤く信仰した四代将軍・徳川家綱のもとで、この地が社地として定められ、寛文2年(1662年)10月25日、太宰府天満宮にならって、本殿・回廊・心字池(しんじいけ)・太鼓橋(たいこばし)が整えられました。これを正遷宮(しょうせんぐう)といい、以来、約350年にわたって関東の天神信仰の中心の一つとして崇敬を集めてきました。

正保3 (1646)信祐が天神像を奉じ巡歴明暦3 (1657)明暦の大火→復興へ寛文2 (1662)正遷宮社殿・太鼓橋

亀戸天神社の創建の流れ(模式図)。太宰府の神官・信祐が天神像を奉じて巡歴し(1646年)、明暦の大火(1657年)後の復興のなかで、太宰府にならって正遷宮が行われました(1662年)。

社名の移り変わり

亀戸天神社は、時代によって呼び名が変わってきました。本家である九州の太宰府天満宮に対して、江戸では次のように呼ばれた歴史があります。

時期呼び名
江戸時代東宰府天満宮(とうさいふてんまんぐう)・亀戸宰府天満宮
明治6年(1873年)東京府社となり「亀戸神社」
昭和11年(1936年)現在の「亀戸天神社」へ

「東宰府」という呼び名は、九州(西)の太宰府に対して、江戸(東)の天満宮であることを示しています。

うそ替え神事と藤まつり

亀戸天神社で知られる行事のひとつが、毎年1月24日・25日に行われる「うそ替え神事(鷽替え神事)」です。木彫りの「鷽(うそ)」という鳥を、参拝者が新しいものに取り替えていくもので、前の年の悪いことを「嘘(うそ)」にして、新しい年の幸せを願うという開運の行事です。

「鷽」は太宰府天満宮の神事にちなむ鳥で、また「鷽」の字が「學(学)」の字に似ていることから、学問の神・天神とのゆかりが深いとされています。

春には、社殿前の藤棚が見頃を迎え、藤まつりが開かれます。亀戸天神社は古くから「花の天神様」と呼ばれ、藤や梅の名所として人々に親しまれてきました。

太鼓橋と心字池の景観

亀戸天神社のもうひとつの魅力が、太宰府にならった境内の景観です。心字池にかかる朱塗りの太鼓橋は、大きく反り上がった独特の姿で、渡る人の歩みそのものを心の修養になぞらえる橋として知られています。

スカイツリー太鼓橋・藤・心字池の向こうにスカイツリー

亀戸天神社の景観(模式図)。心字池にかかる朱塗りの太鼓橋と藤棚の向こうに、東京スカイツリーが重なって見えます。江戸の景観と現代の塔が一枚に収まる、亀戸ならではの眺めです。

藤の花が咲くころには、太鼓橋・藤棚の向こうに東京スカイツリーが重なって見え、江戸の景観と現代の塔が一枚に収まる、亀戸ならではの眺めが楽しめます。境内の四季の風景は、浮世絵に描かれた亀戸 のページとあわせてご覧ください。

まとめ

  • 亀戸天神社は菅原道真をまつる「文」「学問」の社
  • 太宰府の神官・信祐が天神像を奉じ、1662年に太宰府にならって正遷宮
  • 江戸期は「東宰府天満宮」、昭和11年(1936年)に現社名へ
  • うそ替え神事(1月)と藤まつり(春)、太鼓橋と心字池の景観が見どころ

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