亀戸銭座跡|寛永通宝「文銭」を鋳造した幕府の貨幣工場
水運と鉄道の記事で見たとおり、亀戸は江戸の物資が行き交う土地でした。実はこの町には、江戸幕府の貨幣そのものを作っていた工場もありました。
芝網縄手から移転してきた銭座
「銭座(ぜにざ)」とは、江戸幕府の許可を受けて貨幣を鋳造した施設のことです。江東区公式の文化財ページによれば、亀戸にも銭座があり、もとは芝網縄手(現在の港区)にあった施設が移転してきたものだと伝わっています。
いつ移転したのかを直接記した記録は見つかっていませんが、寛文11年(1671年)の江戸図にすでに銭座の記載があることから、それ以前には亀戸で操業していたと考えられています。場所は現在の亀戸2丁目6番地先で、水神宮や香取神社と同じ、低地の町の一角でした。
寛永通宝「文銭」の鋳造
亀戸銭座で作られていたのは、江戸時代を通じて広く流通した銅銭「寛永通宝(かんえいつうほう)」です。なかでも、寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)にかけては、裏面に「文」の字を鋳込んだ寛永通宝、通称「文銭(ぶんせん)」がここで鋳造されました。江東区公式ページは、文銭について「銭質・出来栄えともに良いものであった」と伝えています。
亀戸銭座の年表(模式図)。寛文11年(1671年)の江戸図にすでに記載があり、芝網縄手(現在の港区)から移転してきたと伝わります。寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)には裏面に「文」の字を鋳込んだ寛永通宝「文銭」が鋳造されました。安永2年(1773年)に廃止されたと伝わります。
「大仏の銅」という言い伝えの真偽
文銭には、もう一つ有名な言い伝えがあります。寛文2年(1662年)の地震で、京都・方広寺の大仏(豊臣家が築いた銅造の大仏)が損壊し、その銅材が江戸に運ばれて文銭の鋳造に使われた、というものです。この言い伝えから、文銭は「大仏銭(だいぶつせん)」という別名でも呼ばれています。
ただし、この「大仏の銅を使った」という話には異説があります。江戸文化の研究者・三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は、大仏銭の伝承が享保年間(1716〜1736年)以降の記録にしか現れず、鋳造が行われた寛文年間当時の記録には見えないことを指摘し、後世に作られた話である可能性を示しています。亀戸で質の良い銅銭が作られていたことは記録で確かめられますが、その銅の由来まで確定した事実というわけではありません。
安永2年に廃止
亀戸銭座は、江戸時代の後期まで続いたわけではありません。江東区公式ページによれば、安永2年(1773年)に廃止されたと、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』『葛西志』は伝えています。跡地は現在、住宅地の一角になっており、施設そのものは残っていません。
まとめ
- 亀戸には江戸幕府の貨幣鋳造所「銭座」があり、芝網縄手(現・港区)から移転してきたと伝わる
- 寛文11年(1671年)の江戸図に記載があり、それ以前から操業していたとみられる
- 寛文8〜天和3年(1668〜1683年)には、良質とされる寛永通宝「文銭」を鋳造した
- 「京都・方広寺の大仏を溶かした銅を使った」という言い伝え(大仏銭)は、後世の記録にしか現れず、真偽は確定していない
- 安永2年(1773年)に廃止されたと地誌に伝わる