亀戸を支えた水運と鉄道|運河の町から、本線になり損ねた亀戸線まで
時計の街の工場も、亀戸大根やくず餅といった名物も、人や物を運ぶ「足」があって初めて成り立ちます。亀戸の近代を支えたのは、まず運河であり、やがて鉄道でした。
江戸の水運:運河に囲まれた低地
地名の由来で見たとおり、亀戸はもともと川や海と深く関わる低地でした。江戸時代、この一帯には小名木川・北十間川・横十間川・竪川といった運河が巡らされ、年貢米や材木、肥料などを運ぶ水路として使われていました。東京都建設局によれば、横十間川は万治年間(1658〜1661年ごろ)に開削された、川幅十間(約18m)の運河です。
高瀬舟のような大型の川舟は一度に大量の荷を運べ、馬による陸上輸送よりもはるかに効率がよかったとされています。運河は、この土地の物流を支える主要な手段でした。
総武鉄道、亀戸に駅ができる
明治に入ると、水運に加えて鉄道が敷かれます。総武鉄道(現在のJR総武線)は明治27年(1894年)、市川〜佐倉間、本所(現在の錦糸町)〜市川間を開業し、亀戸を含む8つの駅が設けられました。低地に水路が巡り、そこに鉄道が重なっていく。第二精工舎が亀戸に工場を構えたのは、この交通の便が整いつつあった時期のことです。
本線になり損ねた東武亀戸線
亀戸にはもう一つ、独自の歩みをたどった鉄道があります。東武亀戸線です。鉄道専門メディア「鉄道コム」によれば、東武鉄道は当初、隅田川対岸の越中島にターミナル駅を設ける計画を持っていましたが、この計画は「市街地の再編と密接に関係する」として認可されませんでした。代わりに認可されたのが、亀戸から本所駅付近へ至る路線で、これが明治37年(1904年)に開業した東武亀戸線(曳舟〜亀戸間)です。
開業当初、東武の列車は総武鉄道の両国橋駅(現在の両国駅)まで直通し、両国橋駅は一時、東武のターミナル駅も兼ねていました。ところが明治40年(1907年)に総武鉄道が国有化されると、東武は新たなターミナル駅の構想を進め、明治43年(1910年)に浅草駅(初代)が開業します。これにより亀戸経由の直通運転は廃止され、越中島や新橋への延伸構想も実現しないまま、亀戸線は「本線」から「支線」へと役割を変えました。
亀戸の水運から鉄道への年表(模式図)。万治年間(1658年ごろ)に横十間川などの運河が開かれ、明治27年(1894年)には総武鉄道の亀戸駅が開業しました。明治37年(1904年)に東武亀戸線が本線格の路線として開業しましたが、明治43年(1910年)の浅草駅開業で支線となり、昭和に入ると水運も陸上輸送に押されて役割を終えていきました。
現在、亀戸線は曳舟〜亀戸間わずか3.4kmを2両編成のワンマン列車が結ぶミニ路線です。この小ささは最初からの姿ではなく、都心乗り入れという当初の計画が実現しなかった結果です。
水運から鉄道へ、そして今
陸上輸送が発達した昭和に入ると、運河の役割は少しずつ終わっていきます。地域メディア「カメイドタートルズ」の記事によれば、役割を終えた河川の一部は埋め立てや暗渠化され、竪川の上には首都高速7号線が通されました。水の道が、鉄道と道路にその役目を譲っていったことになります。
東武亀戸線は、今も亀戸水神宮のそばを走り、見どころめぐりの散歩道とも重なります。低地の水路から始まり、鉄道の駅名や路線として今に残る。亀戸の近代は、こうした「足」の移り変わりの上に成り立っています。
まとめ
- 江戸期の亀戸は横十間川など複数の運河に囲まれ、年貢米・材木などを運ぶ水運の町だった
- 明治27年(1894年)、総武鉄道が亀戸に駅を開業。工場や名物の流通は、この交通網の上に成り立っていた
- 明治37年(1904年)開業の東武亀戸線は、当初は都心乗り入れを目指す本線格の計画だったが、総武鉄道の国有化(1907年)と浅草駅開業(1910年)で支線となった
- 昭和に入り水運は陸上輸送に押され、運河の一部は埋め立て・暗渠化された(竪川の上の首都高速7号線など)